フクロライオン2

フェミニストゲーマーのテキスト

『ウツロマユ』批評

『ウツロマユ』批評

 

※12/26加筆分を末尾に追加。

 

 難度ノーマルクリア、エンディング4種、特殊ゲームオーバー2種確認済。

 快適さという面でインディーとは思えないゲームだった。操作性の良さと難度のバランスは『隻狼』ライクな優しさを持った現代のゲームだと言える。ホラー表現については特に滑稽さも感じられず、驚かすだけの演出もプレイ中は無かった(ムービーにはあった)。ただし、ハイドアンドシークジャンルにおいて鬼役である綾乃の定位を報せるSEについては雑。上下だけでなく、壁による音の減衰も感じられない。これ自体は攻略に有利に働く面もあるが、リアリティとしては一段落ちる。髪の毛のテクスチャが壁を貫通するのも同じく、ゲームの嘘が垣間見えてしまうのは残念。プレイヤーとしては攻略に有利な情報を見ぬフリはできないため、活用せざるを得ず、しかしそれがゲームをプレイしていることを強く意識させてしまう。対戦ゲームでない限り、ゲームプレイにおいて没入感は求められると考えているので、これは欠点だと言える。

 一方でセーブポイントセーフゾーン問題については、見事な解決があり新たな発見があった。例えば『バイオハザードRE: 2』最大の問題はタイラントがタイプライター部屋に侵入しない事だというのはツイッターで以前も話したが、本作でタイラントに相当する綾乃はセーブポイントまでしっかり踏み込んでくる。しかし『ALIEN: Isolation』のセーブポイントほどシビアでなく、(有限の)救済措置が用意されている。抜群の調整だと思う。このセーブポイントをリアリティに寄せる一工夫が『RE: 2』にも欲しかったと思えるほどに。つまり、現実とゲームの継ぎ目である「セーブポイント」は、セーブを行うというゲームから離脱した趣旨を持つ性質上、安全地帯を約束することがフェアネスである、という考えがプレイヤー側、制作側、双方において多数派である(と考えられる)が、同時にそれは没入感を阻害する要素でもある。そうした暗黙の了解をフェアネスを維持したまま破壊し、新たなゲームの面白さを開拓することは大変重要で、HUDを画面内の装備に落とし込み、インベントリ確認、選択時にゲームが一時停止されない等の演出によって没入感、緊迫感を高めた『DEADSPACE』の様に、面白いだけのゲームと凄いゲームの違いは、そうした工夫によってもたらされる。余談だが、『ALIEN: Isolation』はその点シビアで、セーブポイント≠安全となっている(安全である状況とそうでない状況がシームレスに切り替わる)。

 本作はいわゆる小ネタも本筋を邪魔しない程度に充実しており、そこからは『バイオハザード』『サイレン』『サイレントヒル』といった2000年前後のホラーゲームの影響が感じられる(筆者は『零』シリーズをプレイしていない)。鬼役の追跡を逃れながら探索し、アイテム・テキストから謎に迫り、鍵や隠し通路を発見して脱出を計る。というゲームのフォーマットは前述の『バイオハザード』『ALIEN: Isolation』の他、『クロックタワー』にも通じる。ボリュームは少ないが、これら名作が比較対象になるほど快適な操作性とゲームプレイはとても2人で制作したと思えないクオリティだった。

 欠点としては、脚本の構成が明らかに"古い"。ホラーにおいては10年代の時点で既にフェミニズムの観点を持つ作品は多くあり、例えば映画では『The VVitch』等、女性を恐怖のアイコンとして有徴化してきた歴史に対して自覚を促す作品が多くある。日本にも『ぼぎわんが、来る』にそうした点が見られるが、残念ながら映画版『来る』ではフェミニズム要素が相当脱色されている。ここでは2010年代以降の、そうしたフェミニズムの視点を有するホラーを現代ホラーと定義づけるが、『ウツロマユ』にはそうした現代ホラーに対する知見が感じられない。

 例えば特殊エンディングの1つであるUFOエンドは、文脈的に『サイレントヒル』オマージュ以上の意味は無いとは思うが、そういう無邪気さはもう現代では危うい。オカルトが陰謀論、差別、排外主義と親和性が高く、利用され得ることを知らなければならない。そうしたリスクについて、本作の制作が無自覚だろうというのは、脚本、構成、テキストから十分にうかがえた。もちろんUFOエンドが即座に利用されるというものではないが、2023年にUFOエンドを無邪気に楽しむということ自体が、既に無知で無責任なマジョリティの特権的行いであり、そうした古さが予定調和から抜け出せなかったシナリオの弱さであると言える。つまり、こうした知識は作品のクオリティに影響するということを強く自覚することが、クリエイターには求められていると思う。なぜ女性が化生の対象として選ばれる、描かれる(有徴化される)のか。日本三大怪談をはじめ、女性の幽霊画の多さだとか、ホラーというジャンルにおいては(もちろんそれに限らないが)フェミニズムを知らないままではそれらについて答えを得られず、表層を撫ぜることしかできない。

 『ウツロマユ』は、制作が影響を受けてきた作品について構造的な理解は十分以上にしていると思う。実際にプレイしてとても面白かった。しかし、それらの作品を受けて進歩してきたホラーは既に多くあり、ホラーを描く上での技術だけではなく、読解力も多く養われてきている。本作に欠けている点は、そうしたホラーというジャンルに対する理解であり、それが進まなければ、単に懐古主義的で、自身が影響を受けた名作にすら批評性を持たないゲームとなってしまう。

 

加筆

 UFOエンドは金色姫=宇宙人であり、これは「古代人宇宙飛行士説」という陰謀論に基づく。古代人宇宙飛行士説とは、高度な技術力、あるいはそれを示唆する遺物を指して、当時の人類に不可能なものであるから、宇宙人がもたらしたものに違いないという論建てである。「イースター島のモアイ」や「マヤ文明の浮彫り画」などがあげられるが、これは「当時その土地の人間に(我々の様な)技術力は無かったに違いない」という差別が根底にある。この"我々"とはキリスト教圏の人間を指す。すなわち、こうした思想は容易に植民地主義や排外主義、オリエンタリズム等と結びつく。現代日本でも既にそうした価値観は内面化されており、海外フィクションにおける日本の描写を「外国人が描くインチキ日本が好き」などと無邪気に消費されてしまっている。リスペクトと理解に欠けたままに消費される「異文化」としての日本は、「眼鏡に出っ歯、糸目で小柄なアジア人」というステロタイプな偏見と同じであるにも関わらず、当事者の日本人が喜んで受け入れてしまっている。映画『ゲットアウト』の黒人差別が理解できない人の様に、差別への理解が浅く、好意に糊塗された差別を認識できない。
 ツイッター等では日々、歴史修正主義者、トランスヘイター、暇アノン等によるデマが撒かれ、それらが繰り返し再生産されていることからもうかがえるように、現代ではこうしたオカルトをかつてのように気楽に消費することは難しい。しかし、本作にはオカルト消費の危険性を承知した上でなお、安心して楽しめるような、そうしたエクスキューズが存在しない。UFOエンド自体がギャグ調であるということは、これが『ウツロマユ』の正史ではないということしか保証せず、現代におけるオカルトの危険性について何ら言及、示唆されることは無い。
 筆者もオカルトを娯楽消費してきた(宇宙人解剖特番とか大好きだった)。しかし、繰り返しになるが現代でオカルトを扱うにはリスクがあり(あるいはようやくそのリスクが可視化されるようになった)、作品自体からそれについての批評性が発せられなければ、作品に没入していたプレイヤーは素面に戻って言及しなくてはならない。この制作の鈍感さのツケ(現実社会の一員としての責任)を払うために、プレイヤーがフォローに迫られ、作品を遊ぶ前にちょっとここに気を付けて欲しいと、待ったをかけなければならない。物語への没入、全力で楽しむということが、ゲームとしての面白さ、プレイングの快適さ、UI、HUD、システム以外の面で阻害されている、ということが残念でならない。

 こうした鈍感さ甘さはアイテムとして入手できる手記のテキストにも表れている。それらが積み重なることで本作の評価が固まって行き、例えば絹や佐一の行動で一部ステロタイプと異なるように見える面も、意図したものではなく偶然によるものだと判断がついてしまう。そうした作為に欠ける脚本から制作の価値規範が透けて見えると、一部システムにおける革新的なアイデアが見られても、部分的な評価にとどまってしまう。

 

 

 

 

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ゲーム『8番出口』についての批評

 制作者は将来有望だと感じる点がいくつもあるので、未来への投資と思えば粗削りな部分に目をつぶれなくもない。しかし本作のみの評価としては、容易に修正できそうな瑕疵により作中世界の確度に欠ける点と、それがゲームプレイにも影響することから、必ずしも良いとは言えない。 以下に詳細を述べる。

 

 トータルで「頑張ってる」と評価したいが、配信適性は十分にあった。とは言うものの、ほとんどのシングルプレイゲームにとって、配信は本質的に有害であり、特に『8番出口』の様なシチュエーションホラーにおいてネタバレはゲームの価値を全損すると言っても差し支えない。配信を通じて全ての異変を知った人は、制作の想定するゲーム体験を得られない。およそゲームとは観察と思考による自説を実践(プレイング)することで得られる結果が報酬となるが、『8番出口』はこの実践の比率が極端に低いタイプのゲームとなっている(例えばアクション性が高いゲームであれば、実践の比率が高まり、その再現を試みるだけでも一定の個人的ゲーム体験は得られる)。
 観察と思考のプロセスを配信によってトレースしてしまえば、それ以上のモノ、つまり個人的ゲーム体験は得られず、プレイする価値は著しく損なわれる。つまりこの場合の配信適性というのは、認知度の上昇がゲームの評価(他人のプレイングによる発見等)や、プレイ欲求を喚起し、売り上げに影響するという類のものではない。短いセンテンスで繰り返されるシチュエーションの中で、異変の見落としをコメントによって煽ることが容易な点や、髪の毛のテクスチャの低質さからうかがえる、ゲームとしての軽いムード等がベースとなって、配信上のコミュニケーションツールとしての手軽さ、利便性をもって"配信適性がある”と評価している。
 またこのゲームにもRTA走者が存在し、そのためにネタバレ済みであっても購入し繰り返しプレイするケースもあり得る。だが、それをもって「RTAが『8番出口』のアクション性を高め、クリア速度を競うことでリプレイ性が高まるために、ネタバレを受けてもゲーム体験が損なわれることが無い」とはならない。

 

 ホラーゲームとしてのフェアネスは比較的高い。明らかにアンフェアに感じた異変は「ポスターが徐々に大きくなる」という1つくらい。他の異変は閉塞感のある地下鉄通路において、脱出のための前進を躊躇わせるほどの不安や恐怖があり、最低でも違和感を与えられるだけの異変として演出されている(ドアノブの様にアンフェア要素の強い違和感もあるが)。間違い探しに終わりたくないという努力の痕跡はうかがえた。同時にあまり質が高いとは言えない点もある。特に髪の毛のテクスチャの低質さにそれが表れていて、低価格ゲームとしての開き直り、馴れ馴れしさがある。異変を感じさせるためには、確度の高い平常が要求されるが、その平常の描写については雑と言わざるを得ない。特に監視カメラの配置は異変といって差し支えないクオリティであり、そうした予算に関わりの無い作りこみの甘さ、ツッコミによってようやく補完される程度の脇の甘さは、配信適性という視点からは左記の様に評価になり得るが、ゲームとしては制作がプレイヤーに手心を要求するものであって、美意識の欠落を感じる。
 だが一方で、ホラーゲームとして異変の演出に対するフェアネス指向を感じることもあった。このちぐはぐさ、粗削りであることそのものがツッコミ要素として評価され得ることは、配信を避けられない現代のゲームにおいて触れずにはおれないが、その評価はクリエイターにとり不名誉であるし、もっと磨いて、隙の無いゲームを制作することを期待している。
 このガッカリ感はZ級サメ映画がジャンルとして成立してしまったことへの失望に似ている。クオリティの低さをネタ消費してしまうことを許すというのは、いわば制作と観客、プレイヤーの馴れ合いであって、それは文化の衰退を招く。

 

 OPタイトルやルール説明なく突然プレイアブルな状況でゲームが開始するのはシチュエーションホラーの演出で、観客やプレイヤーはまずルールを探ることから始めなくてはならない。そうした演出は、低予算ゆえの作品世界の狭さ、小ささを隠すためでもあるが、同時に画面内を注視し発見を重ねることは、没入感を強め課題をクリアする快楽を生む(この没入感を阻害するものとして、左記の低質なテクスチャや監視カメラの配置が相当する)。
 この予算等の制作側都合と作品世界の確度を高めるという一石二鳥の演出だが、それはプレイヤーが与えられたルールを受け入れる、ルールに囚われるという点で、実社会では歓迎されない迎合でもある。こうした矛盾については、それに従わざるを得ない過程が描写される等のフォローが入ることもある(映画『ソウ』等)。
 
本作はこれらハードルに対して比較的丁寧に作りこまれている(本作の場合は大胆な省略が功を奏している)。現実においても地下鉄通路に覚え得る恐怖があり、こうした現実と地続きの世界に没入感は高まる。それだけに、再三言及している瑕疵が目立ってしまう。
 それらは作品世界の棄損だけでなく、プレイする上でのユーザビリティにも影響する。すなわち、作中の事象について「どの水準から異変と見なしてよいか」という疑問が生じる。監視カメラやすれ違う男性のクオリティの他、にも業務用扉は明らかに小さく、プレイヤーキャラクターの足音の定位にも違和感がある。「異変を見つけるゲーム」には確かな平常が求められるのだから、これらについては異変の数を増やす以上に注力すべきだった点であると思う。こうしたクオリティの低さによって、プレイする上で異変の定義や発生ヶ所の把握が遅れたのは間違いない。

 

 冒頭の通り将来有望に感じる点も多く、「頑張っているな」と思わせるゲームではあるが、同時に一見して容易に気づき、修正できそうな瑕疵を放置し、それが作中の確度だけでなくゲームプレイにも影響するとなると、もう少しちゃんと作ってくれと文句の1つも言いたい。というのが本作に対する評価となる。

配信のアーカイブはここに。フォローよろしくお願いします。

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オールタイムベスト映画とゲーム(随時更新)

映画

1. ALIEN (エイリアン, 1979)
2. GATTACA (ガタカ, 1997)
3. GRAVITY (ゼロ・グラビティ, 2013)

4. MADMAX fury road (マッドマックス 怒りのデス・ロード, 2015)
5. Dallas Buyers Club (ダラス・バイヤーズ・クラブ, 2013)
6. The Witch / The VVitch: A New-England Folktale (ウィッチ, 2016)

7. Hereditary (ヘレディタリー / 継承, 2018)
8. Saving Private Ryan (プライベート・ライアン, 1998)
9. Aliens (エイリアン2, 1986)
10. 

ゲーム

1. SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE (セキロ: シャドウズ ダイ トゥワイス, 2019)
2. The Witcher 3: Wild Hunt (ウィッチャー3: ワイルドハント, 2015)
3. Dead Space (デッドスペース, 2008)

4. Bloodborne (ブラッドボーン, 2015)
5. ロックマン2 Dr.ワイリーの謎 (MEGAMAN2, 1988)
6. Alien: Isolation (エイリアン: アイソレーション, 2015)

7. 刻命館 (Tecmo's Deception: Invitation to Darkness, Devil's Deception, 1996)
8 Demon's Souls (デモンズソウル, 2009)
9. 女神異聞録ペルソナ (PERSONA: Be your ture mind, 1996)
10. スーパーメトロイド (SUPER METROID, 1994)
11. バイオハザード ディレクターズカット (BIO HAZARD Director's cut, 1997)

 

 野暮とは思いつつ、それでも選んだ結果として一応数字は付けたけれど、ハッキリ順位をつけたとは言わないです。ただ、行間がある場合は、そこに好意や思い入れといった、個人的な動機でわずかに差をつけていると思ってください。これらはやがてすべてレビューにリンクされる予定です。

格ゲー勢が差別をすることは文化ではない。

先日のマゴとアールの差別とそれを受けての処分について、

"格ゲー勢の煽りは文化だから外野にどうこう言われたくない"

という趣旨のツイートがいくつか目に入ったので、それが誤りであるというテキストを書く。
勢いで書くけれど、誤字脱字、冗長、脱線、重複、ガバい構成は許してくれ。
センシティブな本旨に対して勢いで書くということが不誠実なのは理解してるけれど、
最近全くテキストを書いていないという手前勝手な理由でこういう形にしました。

格ゲーコミュニティに帰属意識はあるけど、その周縁にいます。
なので、今回のテキストも、ブロツキーが個人として責任を負うものです。
俺のテキストが何らかの属性を持つ人を、矮小化、透明化、周縁化したら、それは俺の無知と軽率さのためです。
拡散は歓迎しますが、一方でバズることは想定していません。
よってクソリプ等に用意が無いため、非公開、鍵垢になる可能性があります。
万が一非公開となり、それでも読みたいという人がいた場合は、
ツイッチとマストドンツイッターのリンクを貼っておくので、リクエストなど送ってもらえたら対応します。

https://www.twitch.tv/blotzky_roar
https://fedibird.com/@blotzky
https://twitter.com/blotzky_roa

あらゆる属性を持つ人にとり安全な場所を目指します。

 


要旨は2点。

1. 今回の障害者を揶揄する発言は差別であり、煽り文化としての側面から論じる余地は無い。

2. 極端なエピソードを過度に一般化してゲーセンや格ゲーから新規を遠ざけてはいけない。

3. 謝罪文に御不快構文を用いるのは誤り。

4. 公開されている配信は、内輪の空気が出来上がっている地元の常連だらけのゲーセンではない。様々な属性を持った人や、その友人や家族等、あらゆる人が訪れる場所であり、要求される"公"としての度合いは強い。またこれはインナーサークルであればどんな発言や行いであっても許されるという意味ではない。
 あとゲーセンとか部室の空気が味わいたいならディスコードの使用をすすめる。だからといってそこで差別をしろって意味ではない。アメリカで差別発言をすっぱ抜かれた政治家が「ロッカールームトークだ」と言い逃れしたら、スポーツ選手に「我々がロッカールームで差別しているという扱いを受けるいわれはない」と批判されていた。全くその通りで、クローズドな場所であるから許されるものではない。そして何より、差別について学ぶことは、自分にとって身近な存在を傷つけないためにも、また傷ついた時の寄り添い方を誤らないためにも必要である。

5. スキャンダル耐久値の性差が如実に表れている。たぬかなの時は御行儀よくしてたクセに、マゴの話になると擁護に奔走するセクシストが可視化されている。非難する上で適切な言葉が見つからないが、カワノもマゴもアールもセーフでたぬかなだけアウトであることに疑問を持っている人がいれば、踏みとどまってほしい。
アールのアンチがアールをより厳しく罰せよというのもあった。これは自分の感情に正当性を付与したいという欲望の発露であり、差別により傷ついている人を透明化している。こうした被害者を無視した懲罰感情とまっとうな批判を混同してはいけないし、また利用してはいけない。


5点になった。5点で。いや4,5点目はもう言い終わったから3点で行きます。
見切り発車なので要点が混じって読みにくくなったらすまん。

 

1. まず、障害を揶揄するという差別を格ゲーの文化という側面から擁護するのは誤り。文化が時に差別を内包していることは往々にしてあるが、それが明らかとなれば人権を侵すことがないよう変化を促されるのは当然のことであるし、通常より飛躍した強い言葉を用いる遊びは普遍的な「文化」であり、格ゲー勢固有のものでは無い。つまり批判を受けているのは文化としての言葉遊びではなく、障害を揶揄するという差別なのである。
 そしてこの差別を文化であるとうそぶき温存しようとする態度もまた使い古しの言い逃れであり、それはゲーセンとゲーマーの信頼を損なうだけでなく、加害性を内包していたゲーセン文化に根差しながらも、必要な変化を志し前進しようとしている態度を矮小化する行為でもある。つまり味方を背中から撃つ行為に等しい。
 
 この場合の味方とはマゴやアールのことである。なぜならば、当人たちは自身の発言がコンプライアンス違反であると認め、非常に稚拙で形式的にも謝罪の体を為していないが、それでも一応謝罪らしきものを行っている(実際は謝罪風のナメプだが)。これに対して「文化だから」という擁護は、「謝る必要はない」という態度の表明であり、二次加害であり、当事者とのギャップを認知できていないということになる。こうした発言を、例えば配信のコメント欄に残したとすれば、マゴやアールがその尻拭いをする必要に迫られる。自分のケツすら拭けない情けない謝罪しかできていないのに。ゆえに背中を撃つのに等しい。
 
 ではプロが差別をしてしまった時、ファンに何ができるのか。同じコミュニティに属しながら被害者となった人に対して連帯を表明することはできる。また、直接の被害者でなくとも、応援していたプロの差別に失望し、傷つくこともある。その場合、その人もまた被害者であり、まずは自分を守ることを優先して欲しい。情報から遠ざかったり、いったん格ゲーから離れてもよい。あるいはそうした自分の傷を隠すために、正常性バイアスを働かせ、その一環として左記のような無理筋の擁護をしている可能性もある。しかしそれは二次加害に繋がる。してはいけない。

 次に「障害を揶揄することがなぜ差別になるのか」を説明すると、これは障害者やその周囲の人間の尊厳を傷つけるからというだけではない。障害を揶揄してよい属性であるという文脈を形成し共有することで、障害者への偏見が助長されるためだ。これは「憎悪のピラミッド」の下段に当たる行為となる。格ゲー勢であれば 「DJ使っていると脳に障害が出ちゃうのかな」というマゴの発言には、DJというキャラの性能に対する批判と、それを使用するプレイヤーに対する軽口以上の意味が無いことは知っているが、他意の無いそれこそがマイクロアグレッションであり、加害性を有するほどの無知は、プロに限らず許されるものではない。

 イジリがイジメに発展するように、冗談、噂、デマ、嘲笑、客体化といった行いが反芻されることにより偏見は助長され、放置をうければやがて激化し、中傷や嫌がらせは日常のものとなり、最終的にジェノサイドに及ぶ。特に障害者に対するヘイトクライムは日本の場合、相模原のやまゆり園事件がある。もちろんマゴやアールの発言が直接大量殺人の実行犯を生むものではないが、既に10人以上が殺害される障害者に対するヘイトクライムの起きている日本で、配信内で気安く障害を揶揄し差別すること、またそれが厳重注意で済むこと、それらについてファンダムが「煽り文化」「言葉狩り」などと言い換え擁護し、茶化したり大喜利を始めたりするのは、障害者差別に対する無知と軽視である。

 また自分の属性を揶揄されるという差別により、被害者は悪気ない偏見に対し説明するコスト(初対面カード等)、ラベリングに対するアイデンティティクライシス、そうしたマイクロアグレッションに常に削られ続け、揶揄されない人に比べて生活難度が高くなる。そうしたアンフェアな社会形成を助長してはいけない。

 

2. ゲーセンにおける格ゲー勢の差別発言はたくさん耳にしてきたし、俺も使ってきた。当時は凄く楽しかったので、自分のことを棚に上げやがってという批判に言い逃れはできないが、8,9年くらい前フェミニズムに触れてから変わってきた。
 もちろん気心知れた仲同士だから成立する毒っ気の楽しさは理解している。しかし、初対面の人間にいきなり差別を吐くようなゲーマーは俺の知る限りない。それでもめちゃくちゃな人はいて、でもそういう人ほどめちゃく面白い人だったりして、しかも散々楽しませてもらったので、俺はどうしてもこの点に関してはダブスタな面がある(それが楽しめたのは俺がマジョリティ属性だったからという理解があっても)。繰り返すが、それについて自分のしたことを棚に上げていると批判されれば反論ができない。しかし、そんなめちゃくちゃなゲーセンゲーマーであっても、配信という公開された空間においては言葉を選ぶ。選ぶのだ。
 オンラインとは、社会とダイレクトに接続し、匿名性を保ちながらも高い公共性を有する場所だ。そうした場で差別発言をすることは、ゲーセンゲーマーであってもアウトであるという認識を持っている。であればこそ、ファンがマゴやアールを擁護しようと「煽りは文化」などと無理筋な言説を展開するのは誤りだ。既に話した通り、強い言葉で煽りあうのは、内輪で楽しむ際に出る言葉だ。めちゃくちゃなゲーセンでめちゃくちゃな煽りをしてくる格ゲーマーも、初対面の時は俺にめちゃくちゃ丁寧に対応してくれたし、俺はもてなしてもらったという気持ちが強い。冒頭で周縁にいるといったけど、俺は結局ろくにゲーセンでゲームをしていない。ゲーセンコミュニティは新規だった俺に対して真摯な対応をしてくれたにも関らずだ。それに対して今でも感謝と後ろめたさがある。
 だからこそ、ゲーセンや格ゲーの一部を過度に誇張し、「煽りは文化」という、一面だけを切り取った言葉でマゴやアールの差別を擁護しようという態度が誤りだと、繰り返し言いたい。それは新規という貴重な存在を遠ざける。どんなコミュニティにも言えるがグラデーションが存在している。そうした時、プロの配信というのはコミュニティの中でも比較的安全な場所であるはずなのに、マゴもアールも何してんだよ。


3. 「不快に感じたことについて謝る」という御不快構文だが、これは自身の行いではなく、受け手の受け止め方の問題にしているので誤り。心配をしている人に対して謝るというのも誤り。自分の差別行為を認めずに受け手の感じ方の問題にして済まそうとするのが御不快構文の正体であり、そこに本当の意味での謝意は無い。差別をした人間は、自分の加害により人を傷つけたことに対して謝らなくてはならない。
 今回の場合、揶揄の対象とした障害者とその家族や友人を傷つけ、偏見を助長することで社会生活の難度を上げ、アンフェアな社会形成に加担するだけでなく、ヘイトクライムへの一歩を踏み出したことに対して謝罪しなくてはならない。つまり、自分が何をしたのかをまず謝罪文の冒頭で明示しなくてはならない。例えばマゴのツイートにもTOPANGAのツイートにも、具体的にどのような文脈でどのような発言をしたのか明記されていない。
 また、ファンに対する謝罪を行うとしても、不快だとか心配だとか受け手が感じたことに対してではなく、差別をし、人を傷つけ、信頼を裏切った、自らの行いを謝罪しなくてはならない。にも関らず、あんなみっともない謝罪風ナメプをTOPANGAが許したことも信じられない。まともな謝罪をレクチャーすることも、代筆してプロとしての体面を保たせることができる人材すらいない。
 こうした差別や謝罪風ナメプを批判された人間は、悪意の不在をもって免罪されようとすることがある。悪意の不在は個人の内心に関わることであり、問い詰めることはできない。だからこそ、内心はどうあれ、建前として申し分ない謝罪をしているかどうかが大事となる。謝罪の真偽は、言葉によってのみ判断する以外ない。であればこそ、謝罪文には最大限注力して隙のないテキストを構築する必要がある。
 繰り返すが、本音を確認する手段はこの世にないので、建前の建前としての確度を上げることによって、本音であるという誠意を示して、そうしてようやく謝罪したと言える。それを怠ると、差別をしたという自覚の有無、差別は許されないという認識の有無、差別をしたことに対する謝意、差別をしないための学習意欲等、赤子をあやすように問いただしていかなくてはならない。それが被害者にとりいかに多大な徒労となるか想像に難くない。であれば、これは単なる怠惰ではなく、「謝意は無い」という意思表明とみなし得る。つまり、御不快構文を用いたテキストは、何も謝っていないしと判断できる。
 本当に恥ずかしい限りの謝罪風ナメプだった。チャリティーカップを開けとか、障害があってもゲームをできるようアクセシビリティの高いコントローラーをプレゼントする企画しろとか求めていない。ハラの内でどう思っていようと、建前さえ守ることができれば0円で済む謝罪さえきちんとすれば、まだ望みはあった。それすら怠り、またそれをトンデモ擁護するファンがいるというのは、結構かなり、大変キツい。せめて、せめて謝り方を間違えなければ、それでもまだマゴのファンでいられた。クビになっても。
 しかし個人的な好意の有無は配信で障害者差別をした人間への処分に影響しない。また、ルッキズム発言によりクビになっている前例があるので、2人はクビに相当するというのがフェアなんではないのか。あ、でもそれを言うなら、カワノの前例に倣ってたぬかなも「気をつけろよ」で済ませるのが筋だったのかも。不祥事に性差があるのは全くアンフェアで信頼が失われるし、後々まで引きずることになる。